台中生活

「間」が産んでくれた台中スローライフ

みなさんこんにちは。
先週日本から帰ってきました。出張で行っていたのですが、毎日実家に帰ることが出来、両親と色々飲んだり話したりしてとても良い時間を過ごすことができました。毎年こういう機会を与えてくれる会社に感謝です。
日本を離れて9年が経ちました。9年間あっという間だったなというのが本音。
ブログの「プロフィール」にも書いていますが、大学を卒業してスーパーの鮮魚部門に配属後、包丁一本で生きていこうと決めていた20代半ば。会社の倒産を機にバックパッカーになってアジアを放浪した。

旅から帰るともう30代は目前で、これからどうして生きていこうと色々バイトしながら考えていた。しかし一旦まっとうな道を外してしまうとこの「日本」では生き難いことが分かった。
それに一度日本を出て、色んな国やその国々に住む人々を見てみると先進国の「日本」で生活している「日本人」は決して幸せではないと思えてしまった。実際旅先で出会ったネパール人に流暢な日本語で「日本
人は幸せではないね」と言われて何も言い返せなかった。会社が潰れて放浪していた僕にはその一言はかなり効いた。僕の周りで大切な人達が仕事の影響で亡くなっていたのもあったのだと思う。
帰国後、東京で運送センターのバイトをしていた時、バイトは皆2ヶ月契約で保険や福利厚生は無し。そんな条件なのに若い子達はもう少し長く契約してくれる「契約社員」を目指していた。そんな人達と一緒に働いていたら未来は無いと思って、中国語の勉強を始めた。
勉強を始めて3年後、運良く中国語の先生に先生の親戚を紹介してもらってなんとか台湾に来たのが9年前。持ってきた100万円でどのくらい生活できるか分からなかったけど、少しでも長く生活したかったので台中に来て2日目で飲み物屋のバイトを始めた。当時全然中国語が出来なかったし、学生ビザではバイトは出来ない事は分かっていたので毎日ハラハラしながら生活していた。

平日は大学で2時間授業を受けて夕方まで自習。当時一番安い学費プランが週10時間(毎日2時間)だったのだ。夕方からは飲み物屋でバイト。週末は隣町の彰化まで行って安親班(児童向け学習塾)で日本語を教えていた。それでも貯金は減っていく一方だった。2年目の後半、残り30万円くらいになってしまったので就労ビザをもらえる仕事を探した。
台湾に来て2年後、現地の会社に就職して生活はかなり安定した。正規の仕事を見つけるまで大変だったけど、今思えば留学生時代の「2年間」という「間」があったのがよかったのかなと思う。「2年間」で語学力をつけてバイトを通して台湾社会を体感できたのも大きかった。
それこそ放浪時代にポッカリと空いてしまった空白の時間が僕の人生の分岐点だったと言えばそれまでだけど。
人生何が起きるかは分からないから、一時的に運が悪かったり、流れが悪い方向に行ってしまって人生に空白ができてしまっても、それは後から考えたら何かの「間」になって良いリズムを後に繋げてくれるかも知れない。
そんなことを日本から台中に帰ってくる間ずっと考えていました。僕の今後の台中生活の中でまた「間」ができるのだろうか?その時またじっくり考えてもがいて行こうと思います。大家好
上禮拜從日本回來了,這次出差去日本,每天回老家和我爸媽互動,出差結束後天天我帶我爸媽去外面吃吃喝喝,過了幸福的時間,感謝公司每年給我回老家的機會。
我來台灣已經九年了,時間過得真快,九年的時間不知不覺過去了。
在部落格上的「自我介紹」也有寫,我大學畢業後進去一家超級市場的海鮮部門,每天都切日本四季的海鮮,從事五年多,公司突然倒閉了。
利用這機會我當背包客去國外旅遊一年多。

回來日本時我快三十歲,一面打臨時工一面找機會,但在日本社會中,大學畢業後是最好找工作,以後很難找工作,因為日本公司需要高學歷和無經驗的新人,這樣新人進來公司後比較容易教育。
我當背包客時去過很多國家,看到一些未開發國家的時候我感覺到「日本不是一個好的國家」,「日本人不是幸福的民族」。
我在尼泊爾時有一個尼泊爾人用流利的日文和我說,「日本人為什麼不能隨時約朋友?為什麼不能隨時請朋友進來家裡?自己的工作比朋友重要嗎?為什麼總是這麼忙?」,他有很多日本朋友,他蠻了解日本人的個性和文化,我不知道該怎麼和他回答。
實在日本人總是很忙很累,無法隨時約見面,就是現在的日本社會,我的幾個朋友因為工作壓力太大,已經不在這世界。
從國外旅遊回來後,我進去一個東京最大的運輸公司打工,這家的臨時員工都是兩個月的簽約,因此沒有健保和其他的福利,現在的日本年輕人已經習慣這麼不好的勞動條件,他們的目標就是努力工作要上昇當「契約員工」,「契約員工」有基本的福利,但簽約期只有一年而已,每年要更新簽約才可留在公司工作。
我覺得在這樣的公司工作沒有未來,所以開始學中文。
在東京學中文三年後,我的中文老師給我介紹老師的親戚,九年前透過老師的介紹我來台灣,剛來台灣的時候我只有一百萬日幣,那時候我不知道台灣的物價和開銷,來台灣第兩天就在搖茶店打工,當時我一點都不會講中文,而且我知道學生的簽證不可打工,來台灣第一年我都一直感到壓力。

在東海大學讀中文時每天只有兩個小時的課而已,因為東海大學的學費很貴,我只好選這種課程,其他時間我在圖書館自習,下午去飲料店打工,晚上十一點才回到套房復習和功課,週末坐火車去彰化的安親班教日文,來台灣兩年的時候我的存錢快沒有,我得找工作需要工作簽證,不然不能留在台灣。
找到工作後我的生活才會穩定,對外籍人而言在台灣找工作不簡單,我覺得當留學生的兩年的時間讓我學很多東西,學了兩年的中文,一般會話都沒問題,透過打工學了台灣社會和台灣文化,在我的人生中這兩年的時間是為了開始台中生活的準備時間。
可說當背包客出去國外旅遊的「空白時間」就是我的人生的「分歧點」,如果在日本公司順利工作,我不會學中文,不會來台灣。
在這世界每個人都不知道未來會發生什麼事情,有時候遇到意外,或是做什麼事情都不順,造成一個「空白時間」,自己沒想到做成一個「空白時間」,如果你有這種時間的話不要緊,「空白時間」有可能將來給你順利生活。
這次從日本回來台灣的路上一直想九年前剛來台灣時候的事情。
未來有可能再會來「空白時間」,那時候我會想什麼事情呢?人生的「分歧點」再來嗎?

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